九代目言聞録

14.飯塚良いとこ!井筒屋良いとこ!~その1~~お客様も理事長も社長も店員さんも全員あったか~い催事だった~

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本町商店街の中にある飯塚井筒屋

四代目の原田平五郎は飯塚出身である
今年3月に福岡県飯塚市にある市内唯一の老舗百貨店「飯塚井筒屋」にて「おたふくわたフェア」が開催された。九州にいらっしゃる方にはいらぬ説明だが飯塚市は福岡県内で「筑豊地方」といわれる場所にありちょうど県の中部あたりに位置している。 昨年は4つの町と合併し県内では4位の人口都市となった。
「飯塚」という地名の由来は諸説あるがまず神功皇后が部下である兵士が帰郷せずに皇后に従い飯塚まで来たので 「いつか再び玉顔そ拝し奉らん」と深く歎き慕ったといわれ、イヅカ(飯塚)の里というのと、もう一つは聖光上人が、明星寺再興の建立のとき民を集め炊いていたご飯の量があまりにも多すぎて山盛りになりそれが塚のような形だったので「メシノツカ」飯塚と呼ばれるようになったとも言われている。
江戸時代には長崎街道が整備されて宿場町として栄え、明治あたりから石炭の町として発展し石炭業では国の中心的役割を果たすようになった。(外務大臣の麻生さんもここの出身であり麻生家は石炭事業で財を作りあげた)後に石炭産業は衰退、閉山によって過疎化が進んだが飯塚は数多くの学校や歴史の博物館、嘉穂劇場といった伝統的な劇場を復活させたりと町の活性化に力を注ぎ人口は微増しているという。このあたりは饅頭のメーカーが数多くあるのだが炭鉱で働く労働者達が疲れた体に栄養をつけるために饅頭を食べていたのであちこちの町に多くの店が誕生したと言われる。全国的に有名な「千鳥饅頭」もここが創業地であり現在でも本店がある。
弊社の四代目・原田平五郎は家具業などを営んでいた商家である嶋田家の五男としてこの飯塚で生まれ育った。高校時代からは博多に住むようになりその後、東北大学を卒業後、東京の大手造船会社に勤めている最中に僕の祖母にあたる喜久子と結婚し、おたふくわたの婿養子となったが、もとは純粋な飯塚っ子なのである。
僕がなぜ祖父の生誕地である飯塚でこのような催事が出来たのかというと、今から2年前の冬に祖母の13回忌と父の25回忌を代々の墓がある博多のお寺で行い、その後行われた食事会で僕と「はとこ」の関係にあたる嶋田吉勝(きちたか)氏と話したことがきっかけだった。嶋田氏の父と私の父が従兄弟にあたり、つまりは嶋田氏の祖父は平五郎の兄になるのだが、嶋田氏は現在、飯塚市で個性ある学校として有名な飯塚高等学校をはじめとする嶋田学園の理事長として活躍されている。
その嶋田氏が「おたふくわたを復活したことが凄く嬉しいよ」と話しかけてくださったのだがそれまでは何回か法事などで顔を合わせることはあったが今回のようにゆっくり話す機会がなかったので本当に嬉しかった。
僕が東京に戻った数日後にその嶋田氏から電話が掛かり「もし機会があれば浩太郎君のおじいちゃんが生まれた飯塚で催事でもしてみないか?」と誘ってくださったのだ。そして「実は飯塚井筒屋という小さな百貨店があるんだけど、そこで催事をしたらどうかな?そのあたりはかつて嶋田家の店や家があってね。おじいちゃんはそこで生まれたんだよ」と教えてくれた。僕は「小さな百貨店」と「おじいちゃんが生まれた場所」というキーワードに面白さを感じ「ぜひやりましょう!」と即答した。おたふくわたを大きく育て戦後の博多復興にも多大なる力を注いだ祖父に恩返しをするために、その祖父が生まれた場所に建つ百貨店で催事をするなんて見事なストーリーである。

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毎日新鮮な野菜などが入ってくる

いなかは強いんだよ!
僕はその後、嶋田理事長の紹介で飯塚井筒屋の当時常務であった久保社長とお会いすることになったのだが久保社長から名刺交換の際「一度お会いしていますよ」と言われた。というのは久保社長は実はその半年前に岩田屋で行われていた催事に来て販売員をしていた僕を偵察していたのだ。えええっ?僕は気がつかなかった。悪さは出来ないものだ。
その久保社長だが年齢的には先輩であるが情熱的でかなりのアイデアマンであることに驚いた。とにかくお会いする度にポンポンと面白いアイデアが出てくる。僕も久保社長に敵わないが自称アイデアマンなので2人が話すとどんどん話が盛り上がり最後には汗がびっしょりで商談が終わるということが大げさでなく度々起きていた。
その社長の下で働く久田GMを始めとする従業員皆も熱い気持ちをもっている。そして「大きい百貨店じゃ出来ないことが小さい百貨店は沢山出来るんだよ。」全員がそういう気持ちを持っている。「いなかは強いよ!障害になるようなものがないからね。面白いとすぐ出来る」久田氏の目が光っていた。
飯塚井筒屋は飯塚市にある唯一の百貨店である。4階建ての建物で売り場面積も決して大きくない。おしゃれな洋服や流行のグッズはバスや電車で1時間以内で行ける博多の天神に比べるとほとんどない。それでもこうして町の人に愛され続け高い利益を出しているのは地域密着に完全に徹しているからだ。お客様には「いらっしゃいませ」ではなく「こんにちは!」とまるでご近所のように声をかけ、店の入り口には毎日新鮮な農作物が近くの農家から運ばれ、粋なおじさんがいつも笑いながらいい匂いの名物のほんまちまんじゅうを作り、店員さんとお客がまるでご近所の奥さん同士のように話し込んでいるのだ。
僕が行ったときには「世界のカブトムシ展」をしていたのだがその中心部に小さい森のようなコーナーがあり直接カブトムシを触れるのだが驚いたのは都心の催事でも見かけられない超めずらしいカブトムシも普通に木にいたのだ。「こんなに高価なカブトムシ・・角とか取れちゃったらどうするんですか!!!」と聞いても「取れんよ」とあっけなく答えた久田GMの姿は今でも忘れない。う~んこれが「いなかは強い」という意味なのかなあ・・・。
しかし僕は子供たちを見て気がついた。こんなにめずらしいカブトムシを触れることに子供たちは喜びながら、めずらしいこのカブトムシの角なんかが取れたらマズイと思い、全員が慎重にさわる。子供と百貨店の間にそういった信頼関係があるのだ。凄い。

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大人気で毎日売り切れるほんまち饅頭

翌月には見学した小学生から多くのお礼の手紙が来ていてその手紙を階段の踊り場に張り出していた。う~ん・・・飯塚井筒屋は地元にとっては居心地の良い喫茶店であり、学校であり、文化祭であり、そして百貨店なのだろう。
久田GMは「あなたのじいちゃんがここで育ったんだろ?なら盛り上げなきゃ。飯塚の人だってまだまだおたふくさんが復活したの知らない人が多いよ。いなかでしかできないおたふくフェアやろうよ。ここの催事場を時代劇に出てくるような茶屋で演出していこうと思うんだ。立派に作る予算はないけどいい空間作れるよ。お客様がお茶を飲みながらおたふくの看板を懐かしく見る空間を作ろう」と会場の端で腕を組みながら話した。
そして横にいた久保社長が「そうだ!1階で販売している飯塚ほんまちまんじゅうを限定でおたふくまんじゅうにしよう。」と言い出したのだ。「いいですねえ。ならそのまんじゅうとお茶を出しながらおたふくわたの思い出を語ってもらいましょう」と久田GM

こうして僕の存在を無視してどんどんと企画が進み3月に今まで僕らが経験したことのない催事場全部を使った巨大なおたふくフェアが開催されるのである・・・。
次回はその2を書きます。お楽しみに~!

九代目 原田浩太郎

※このコラムは2007年4月に執筆されたものです

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