九代目言聞録

22.ついに僕はインドへ行った!~前半~ ~「カレー」「たくましさ」「砂」「綿畑」「違法軍団」・・・ インドはエキサイティングだ!~

いつのまにか家内がチケットを手配していた!
1月にいきなりインド視察旅行に行くことになり驚いた人も多かったようだ。そりゃそうだ。僕自身も今年1月に行くなんて夢にも思わなかった。実は昨年8月のお盆休み前に取引先の方から11月頃に数人と視察に行くから一緒にどうかとお誘いを受けていた。その時、綿の原産国視察を以前から強く薦めていた家内も僕を後押ししていたこともあり、僕も行く予定でいた。しかし以前ここのコラムで書いた高島屋のNバイヤーと3年越しの商談を続けていたが9月にお会いしたとき、なんと11月催事開催が決まり、さらに飯塚井筒屋で第2弾の催事が12月に決まったので僕のインド視察旅行は幻に終わったのだ。
お誘い頂いた方に丁寧に断りを入れた後、移動の車中で高島屋や井筒屋の催事がなければ行っていたはずと思いつつ小心の僕としてはいや色々理由をつけて行かなかったかもしれないと考えたりもした。しかし後日に海外でカミソリを製造している輸入販売している僕の仲良しの友人が夏に製造元であるイタリアとイギリスに出張に行き、帰国後ランチをした際「やっぱりその国を見にいかないと説得力がないんだよなあ」と彼が言った台詞が凄く心に残った。
僕の親父はやはり20代後半の独身の頃に商社の協力のもとインドはボンベイ(ムンバイ)に長い間滞在していた。多分半年か1年近くいたと思う。自分の親父も行って綿畑や工場を見て学んでいるのにおたふくわたを継ぐ僕が原産国を見に行かないでお客様に説明するのは説得力がないのではないかと彼との食事の後悩んでいた。
帰宅して家内に友人の話を聞いてインドにやっぱり行きたくなったと話すと優しい口調で「来年、また取引先からお誘い受けたらそのときは行けばいいじゃない」と言った。その時そうだねと僕が答えれば話は済んだのだが「そうだねえ。でもまた催事があると行けないよね」と逃げ腰の発言をしたことで家内はついに怒りが着火したようだった。今から予定を決めれば11月に催事があってもうまく調整できるのに。家内はアジア、ヨーロッパの30カ国以上をバッグパックで学生時代から廻っている行動派だ。綿を見にいきたい、綿工場を見たいという思いを持ちながらインドという大国に不安を抱く小心の僕にイラつくのも頷ける。それでも表情を変えず「1月は催事がないの?」と聞いてきて「うん1月はないなあ」と言って僕はトイレに行った。そして歯を磨き洗顔をしダイニングに戻ると家内はどこかに電話をしていた。その口調はどう見てもチケットを予約しているとしか思えない内容だった。そして電話を切った後「インドのチケット手配したわよ。来月ね(1月)。私のマイルが相当たまっていたから往復無料で行けるわよ。私からのクリスマスプレゼント。いってらっしゃい!!」と寝室に入ってしまった。航空会社に勤めていたから数分でさっさとチケットを取ってしまった。そういうことで僕は彼女のパワーに唖然となりながらも行くことを決心したのだった。

取引先の皆さんが協力してくれた
1ヶ月しかない。大使館や取引先も年末は休みに入るので実質3週間弱しかない。とにかく急いで準備をすすめなければいけない。本社の役員に電話で連絡し、東京の営業マネージャーである鶴崎君を打合せの部屋に呼んで話した。彼の驚いた顔を今でも忘れない。そして翌日全員に話したあと僕は出かけて11月に視察旅行をお断りした方に会いに行き恥を承知でインドに行く話をした。その方は「原田さんの事だから数ヶ月以内に必ず行くと思っていたよ」と笑いながら答えてくださり、その後、あちこちに電話をして僕のインド視察旅行の対応をしてくださったのだ。
中でも輸入綿の仲買商を経営している大阪の中山さんは弊社の綿の輸入元である現地の社長と直接連絡をしてホテルや移動の手配をしてくださった。さらに現地の社長が自分の部下を8日間、ガイドとして同行させますという超ありがたい連絡が入った。これは本当に助かった。というのも決断したのはいいがインドの一部地域は外務省のHPで渡航を控えなさいと書かれていた。僕の行く綿畑の近くにそのエリアがあるのだ。今回の視察旅行は11月と違い、誰も日本から同行者がいないので一人旅の状態だったので中山さんの協力は嬉しかった。家内から「みんなに助けられてホントにラッキーね」と言われた。

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機内から撮った中国大陸。
この数時間後恐怖のどん底に

インド視察旅行前日に家内から「色々学んで来てね。あなたのお父様が行った国と同じ場所を訪れることが出来た幸せを感じながら綿の原点を見てきなさい。インドという国を見て少し視野を広げればまた考えも少し変わるはずよ」と言ってくれた。家内に感謝している・・。本当に素晴らしい女房を持ったもの・・・とそんなのろけたムードも翌日飛行機に乗り込み数時間後ヒマラヤ山脈の近くに飛行機が近づいた瞬間、きれいにふっとんでしまった!!それは今までに経験したことのない物凄い揺れを体験したのだ。乗客からも少し悲鳴に似た声が聞こえてきたぐらいの揺れだった。僕はこの瞬間「あ~インドはきっと凄い事になるな」と不安全開モードになっ

ナヨナヨ原田全開
ヒマラヤを抜けて数時間後、窓からいよいよインドが見えてきた。上空から見るインドの町は全体的に赤茶色の建物が多くまるで古代文明にタイムスリップしたような印象を持った。良く空港に降りるとその国の匂いが分かるというがニューデリー空港は上空から見た印象と同じで砂ほこりの匂いがしたのだ。入国審査を待つ長蛇の列に並びながら日本人のビジネスマンたちの声が聞こえてきた。「今回は下痢にならなきゃいいなあ」「あのレストランまた行かされるのかなあ」「しかし列がめちゃくちゃなのにそこの警備員は何もしないよなあ」「それよりも今回は屋台でのジュースは断ろうな」とどうやら前回嫌な経験をしたらしくネガティブな会話が続いていた。こんな会話はインドという国だからこそ聞けるんだろうと思った。しかし電気も薄暗く国際空港と思えないそのボロさに僕は異様に興奮してしまったが世界にはこんな空港ざらにあるんだろうなあ。と改めて自分の視野の狭さを感じた。
さて審査を終え、荷物を取り出口に行ったら大勢のインド人がプラカードを持って立っていた。僕の名前を見つけようにもこの人の多さでは時間が掛かるなあと思いながら1枚1枚見ていた。そしたらはじっこに数人怪しい雰囲気のインド人がWELCOMEやTO JAPAN としか書いていないカードを持って僕を呼んでいるではないか。名前は書いているはずだからおかしいと思ったが手招きしながら笑顔で「ヘイ!ウェイティング フォーユー」と話しかけてきた。白タクのような連中だろうから引っかかることはなかったがあの堂々とした演技には妙に感心してしまった。

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空港出口。初日は手前のフェンス越しに多くのインド人が迎えていた。

だが・・僕は自分の名前を書いた人をなかなか見つけられなかった。出口に出てから40分はたっていた。あのグループはうろうろしている僕がまさに標的なのか目が合うとしつこく呼んでくる、一瞬あの人たちなのかと悩んでしまったが不安になり僕は携帯で中山さんに電話をした。最悪はホテルまでタクシーで行くしかないと思った。ナヨナヨ原田全開である。そして迎えのインド人が数人になったとき大きいプラカードを持っているのに「MR HARADA」とボールペンで小さく書いた大柄のインド人を見つけた。
日本で聞いていた名前・・ラジェッシュさんだった。やったあ!いたいた!と思いながら近づくと彼はいきなり「君は何百回も僕の前を通りすぎたから彼は迎えが来ていないのかと思っていたのだがまさかそれがハラダさんとは思わなかった」と笑いながら握手してきた。あんなに大勢いてしかも体格に似合わず僕の人差し指ぐらいの大きさの細い字じゃ気がつかないよ!!と僕も笑った。いつの間にかあのグループも消えていた(笑)。
こうして僕のインド旅行はスタートを切った。この日はホテルに直行し翌朝からアーグラーという街へ行く予定だ。タクシーに乗りホテルに向かいながら、インド人の車のクラクション乱打、運転の荒さに驚いた。渋滞で動かないのに怒りをぶつけるかのように不必要なクラクションがあちこちで聞こえる。クラクションのせいでラジェッシュさんの話も聞きづらかった。到着して1時間で僕はもうインドに圧倒されていた。このままじゃインドに負ける・・・・。窓にうつる小心全開の自分の顔を見ながら僕は少し笑ってしまった。
次回は「ついに僕はインドへ行った!~中~」について書きたいと思います。

九代目 原田浩太郎

※このコラムは2008年2月に執筆されたものです

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