おたふくわたの歴史

おたふくわたの歴史

創業は江戸時代 天保11年

私たちの創業は、江戸時代の天保11(西暦1840年)2月。初代当主・原田忠右衛門は、福岡の筑前博多小山町(現・上呉服町)で黒田藩の許しを受けた種油商「糀屋(こうじや)」の次男として生まれました。 種油商というのは、食用原油や飼料、燃料などの原料となる綿花の中心部にある「実」の部分をあつかう商売です。当時は、食用というよりも、燃料などとしてのほうが需要があったといいます。種油商にとって大切なのはワタの「実」の部分であって、「繊維」は彼らにとっては不要品でした。そこで次男である忠右衛門は、兄の商売では使われない綿(繊維)に目をつけて独立。下小山に山?(かねやま)とのれんをあげ、弓打ち式のわたの加工やふとんの販売、綿花の仲買などをはじめました。これがおたふくわたのはじまりです。

商品名に「おたふくわた」が登場

綿商は明治17(1884)年に忠右衛門の息子、原田重吉が2代目当主になりました。重吉は原綿買い付けから加工販売までの一貫製販をおこなったり、綿弓機から手動足踏みの機械に転換させたりと、事業を拡大させ、現在につながる企業構造を確立しました。そして明治35(1902)年、屋号を山?原田製綿所と改称し、商品に「おたふくわた」と名づけたのです(同時期の姉妹商品には「ふくすけ綿」もありました)。 ところでなぜ「おたふく」なのでしょうか? おたふくというのは、日本神話に登場する女神に由来します。「神代の昔に天の岩戸の前でおたふく顔の女神が神楽を舞い、神が岩戸を開いたことによって地に再び光が導き出された」というめでたい縁起にちなみ、ふっくらした綿とおたふくのイメージをつなげて名づけたとされています。もう一つの説によると、明治22(1889)年に福岡市制がしかれるにあたって、商人たちの街・博多と武士の街・福岡のどちらの名前を使うかで世論が二分した際に、重吉は博多の「多」と福岡の「福」をとって「おたふく(お多福)」の名をひねり出したともいわれています。いずれにせよ幸せを願うイメージからつけられた名前であることは間違いありません。

事業拡大と戦後復興

昭和4(1929)年、「おたふくわた株式会社」として法人化。これを機に「日本一のおたふくわた」の新聞広告を出すように。昭和12年頃には、華北・満洲・朝鮮・九州と事業所も増え、最盛期を迎えます。 しかし、第二次大戦の敗戦によって海外資産のすべてを失い、おたふくわたは創業以来最大の苦境に立たされます。そんななか福岡大空襲の戦災をまぬがれた本社工場にて、戦災者向けの再生ふとん綿で製造を再開。米軍特需や官需にも力を入れ、脱脂綿や不織布などの医療用品の分野も充実させました。事業を再建する一方で、創業の地・福岡の戦後復興にも力を注ぎました。 昭和49(1974)年、「ハニーファイバー」と社名を変えてからは、「おたふくわた」は木綿ふとんのブランド名となりました。木綿ふとんの他にも、羽毛・羊毛や温熱ふとん、不織布など商品ラインナップを拡大しました。

市場の混乱と撤退、そして復活

その後、価格破壊やそれにともなう品質の低下などによって市場が混乱し、寝具に対する消費者の信頼を失った時期がありました。こうした混乱のなか、ハニーファイバー社の社長であった原田憲明が急死し、平成9(1997)年にやむなく寝具業から撤退することになります。 しかし現社長の原田浩太郎が「もう一度木綿ふとんの良さを世に広めたい」と決意し、平成15(2003)年に「おたふくわた」ブランドを復活。インターネットでのふとん販売から再スタートし、わたの魅力を伝える活動をおこなってきました。 平成28(2016)年にブランドをリニューアルし、「ナチュラルコットンと心地よいくらし」をテーマにますます皆さんの身近な存在へと変化していきます。

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